平田篤胤

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平田篤胤
Portrait of Atsutane Hirata.jpg
平田篤胤像
時代 江戸時代後期
生誕 安永5年8月24日1776年10月6日
死没 天保14年9月11日1843年11月2日
享年69(満68歳没)
改名 大和田胤行 → 平田篤胤
別名 大壑
大角
玄琢
気吹乃舎
真菅乃屋
神号 神霊能真柱大人
出羽国久保田藩備中松山藩 → 久保田藩
氏族 房総平氏大和田氏伊勢平氏平田氏
父母 実父:大和田祚胤
養父:平田篤隠
兄弟 雅胤
正胤
胤行
実胤
胤秀
織瀬(石橋常房の娘)
織瀬(山崎篤利の養女)
実子:常太郎、千枝、又五郎
養子:鐵胤

平田 篤胤(ひらた あつたね、安永5年8月24日1776年10月6日) - 天保14年9月11日1843年11月2日))は、江戸時代後期の国学者神道家思想家医者出羽久保田藩(現在の秋田市)出身。成人後備中松山藩士の兵学者平田篤穏の養子となる。幼名を正吉、通称を半兵衛。元服してからは胤行、享和年間以降は篤胤と称した。号は気吹舎(いぶきのや)、家號を真菅乃屋(ますげのや)。医者としては玄琢を使う。死後、神霊能真柱大人(かむたまのみはしらのうし)の名を白川家より贈られている。

復古神道古道学)の大成者であり、大国隆正によって荷田春満賀茂真淵本居宣長とともに国学四大人(うし)の中の一人として位置付けられている。

生涯

秋田を出奔

安永5年8月24日1776年10月6日)、出羽久保田藩の大番組頭であった大和田清兵衛祚胤(としたね)の四男として久保田城下の中谷地町(現在の秋田市)に生まれた[1]。生家の大和田家は、朱子学を奉じ、国学神道とは無縁であった[2]

故郷を捨て江戸に出奔する20歳のときまでの事跡ははっきりしないが、現存する史料から不幸な幼年期を送ったと見られる。諸書には久保田藩の医師侍講でもあった中山菁莪の門下だったとあるものの、秋田時代の篤胤の経歴はほとんどすべて養子の平田銕胤の記述をもとにしているので、白紙にもどして検討する必要がある[1]。ただし、自著『仙境異聞』(1822年)において「己は何ちふ因縁の生れなるらむ」と嘆いており、天保13年(1842年11月2日の銕胤にあてた手紙には、「生れ落より父母の手には育てられず、二十になる正月の八日に、かねて五百文こしらひ置たる銭を以て書置をして欠落し江戸へ出たが」とあるので、貧しさのなかで捨て子同然の幼少期を送ったと考えられる[1][注釈 1]。また、継母との折り合いがわるかったという見解もある[3]

20歳になったばかりの寛政7年(1795年1月8日に脱藩・出奔し、遺書して国許を去った。正月八日に家を出るものは再び故郷に帰らない、という諺にちなんだという。江戸に出た篤胤は、5代目市川團十郎の飯炊きや三助火消しなど苦学しながら当時の最新の学問、西洋の医学地理学天文学を学びつつ、旗本某氏の武家奉公人となった[1][2][4]

寛政12年(1800年)、篤胤25歳のとき、勤め先で江戸在住の備中松山藩藩士で山鹿流兵学者であった平田藤兵衛篤穏(あつやす)の目にとまり、才覚を認められて、その養子となった[1][2]。養子となったいきさつには様々な伝説があるが、詳細は不明である。このころ、駿河沼津藩石橋常房の娘・織瀬と出会う[4]。当時18歳前後であったろうと考えられる織瀬は旗本某家の奥に勤め、篤胤は同家のしがない奉公人であったが、やがて2人は深く愛し合うようになり、享和元年(1801年)篤胤26歳のとき、結婚した[4]

国学との出会い

上述のように、篤胤が江戸に出てきたのは必ずしも国学を学ぶためではなかった[4]。その関心は広く、蘭学吉田長淑に学び、解剖にも立ち合っている[2]。他方、迫り来る対露危機に関しては、徹底した情報収集をおこなっている[2]

篤胤が本居宣長の名前と著作を知ったのは、宣長没後2年経った享和3年(1803年)のことであった[5]。妻の綾瀬が求めてきた宣長の本を読んで国学に目覚め、のなかで宣長より入門を許可されたとしており、「宣長没後の門人」を自称したとしており、これは時代の流行語となった[1]

『夢中対面の図』(渡辺清画)

文化2年(1805年)、篤胤は宣長の跡を継いだ長男の本居春庭に入門しており、夢中対面の話は春庭あて書簡に書かれている[注釈 2]。篤胤は、宣長の著作『直日霊』や『初山踏』『玉勝間』『古事記伝』を購入し、これらを通じて服部中庸(箕田水月)の『三大考』の宇宙観に接することとなった。後に鈴屋の本居大平を通じて中庸と知り合った。中庸は、古道の本義を伝えるよう篤胤に依頼している。

このころ、山村才助が本格的な総合的地理書『訂正増訳采覧異言』(1802年成立)を著し、志筑忠雄の『暦象新書』(1798年-1802年)では地動説が紹介されている[2][5]。篤胤は、両書より強い影響を受け、世界認識の再構築をせまられた[2][5]。そこで出会ったのが、宣長の国学だったのである。しかし、宣長と篤胤では学問の内容・方法ともに大きな相違点がみられる[6][7]

享和3年(1803年)、太宰春台弁道書』を批判した処女作『呵妄書』を著し、翌文化元年(1804年)、「真菅乃屋」を号して自立した[7]。書斎「真菅乃屋」は好学の人であれば、身分を問わず誰に対しても門戸がひらかれていた[8]。以後の篤胤、膨大な量の著作を次々に発表していった。篤胤の執筆する様子は、何日間も寝ずに不眠不休で書きつづけ、疲れが限界に来たら、机にむかったまま寝て、十分に寝ると再び起き、また書きつづけるというものだった。文化2年から翌年にかけて『鬼神新論』『本教外編』などの論考を著述している。

文化3年(1806年)より真菅乃屋では私塾として門人を取っており、文化13年(1816年)、名称を「気吹舎」に改めている[7]。門人ははじめ3人であったが、最後には553人に達した[7]。そのほかに、「篤胤没後の門人」と称した人は1330人にのぼった[7]

文化8年(1811年)頃までおこなった篤胤の講義が門人筆記というかたちでまとめられ、『古道大意』『出定笑語』『西籍慨論』『志都の石屋(医道大意)』などの題名でのちに書籍として刊行されることとなるが、この時点では宣長の学説の影響が濃く篤胤独自の見解はまだ充分にすがたをあらわしていない[7]

復古神道の成立

文化9年(1812年)、篤胤37歳のとき、幽冥界を論じた『霊能真柱』を書き上げた[7]。ここで、篤胤は従来にない、かれ独特の生死感を説いた[9]。この書は、「霊の行方の安定(しづまり)を知」るならば、「大倭心(やまとごころ)を堅むべく」、大倭心が固められるならば「真道(まことのみち」を知ることができるという死後安心論の意図をもって著述された[7]。すなわち、本居宣長は、人は死ねばその霊は汚き他界、つまり「夜見」(黄泉)の世界へゆくのであるから、人が死ぬことはじつに悲しいことだとしたのに対し、篤胤は、人は生きては天皇が主宰する顕界(目に見える世界)の御民となり、死しては大国主神が主宰する「幽冥」(目には見えない世界、冥府)の神となって、それぞれの主宰者に仕えまつるのだから死後は必ずしも案ずるものではないと説いた[5][7][9]。そして、その「幽冥」とは、われわれが生きる顕界と同じ空間にあって、決して他界ではなく、幽冥界からはこちら側(顕界)が見えるものの、こちら側から向こう側(「幽冥」)は見えないだけであるとし、さらに神は、山や森や墓という身近なところ(「幽冥」)から顕界に生きるわれわれとその子孫を見守っているとした[5][7][9]。篤胤は、これを10個の図によって、開闢のはじめの混沌たる原質から天(太陽)・地(地球)・)から成る宇宙がいかにして生成されたかなどを地動説的に解釈し、説明したのである[2][5][7]。篤胤が求めたのはこの世の幸福であり、関心をいだいたのは死後の霊の行方についてであった[5]。その霊の安定を神道に求めたのであり、それゆえ、神道は従来以上に宗教化したのである[5]。ここで篤胤は、キリスト教天地創造神話と『旧約聖書』的な歴史展開を強く意識しながら、天御中主神を創造主とする、きわめて首尾一貫した、儒教的・仏教的色彩を完全に排除した復古神道神学を樹立したといえる[2]

『霊能真柱』は篤胤にとって、分岐点ともいえる重要な書物だったが、本居学派の門人達は、この著作の幽冥観(死後の行方)についての論考が亡き宣長を冒涜しているとして憤慨し激しく非難し、篤胤を山師と罵るなどした。そのため、篤胤は伊勢松坂の鈴屋から疎遠になっていく。しかし、篤胤の論考は出雲神道として取り入れられ、その後の神道のあり方に強く影響を与えた。なお、篤胤は、『霊能真柱』を書き上げた年に愛妻織瀬を亡くしている。妻に対する憐憫の思いはことのほか強く、「天地の 神はなきかも おはすかも この禍を 見つつますらむ」と神への憤りや遣る瀬無さを歌に托し詠歌している。

1811年(文化8年)大いに奮発する事があって師走には駿河国府中の門人柴崎直古の寓居に籠もり、後に平田学の中核的中心教義となる、『古史成文』『古史徴』『古史伝』など古代研究の本を一気に数多書き上げる。

1815年(文化12年)、40歳のとき、この年大いに著述を急ぎ草稿数巻成れりとある。翌年の四月には鹿島神宮香取神宮及び息栖神社に詣で、序に銚子辺りを廻り諸社巡拝して、天之石笛という霊石を得たことにちなんで、家号を伊吹乃屋と改め、大角とも名乗るようになる[注釈 3]1817年(文化14年)(42歳)には、この旅行の顛末をしるした『天石笛之記』が書かれている。

文政3年秋の末で、45歳のころ、江戸で天狗小僧寅吉の出現が話題となる。この噂の発端は江戸の豪商で随筆家でもある山崎美成のもとに寅吉が寄食したことにある。寅吉は神仙界を訪れ、そこの住人たちから呪術の修行を受けて、帰ってきたという。篤胤はかねてから異界・幽冥の世界に傾倒していたため、山崎の家を訪問し、この天狗少年を篤胤は養子として迎え入れ、文政12年まで足掛け9年間世話をしている。

篤胤は、天狗小僧から聞き出した異界・幽冥の世界の有様をまとめて、1822年(文政5年)に『仙境異聞』を出版している。少年を利用して自分の都合のいいように証言させているに違いないと批判されたが、篤胤本人は真剣で、寅吉が神仙界に戻ると言ったときには、神仙界の者に宛てて教えを乞う書簡を持たせたりもしている。『仙境異聞』に続いて『勝五郎再生記聞』『幽郷眞語』『古今妖魅考』『稲生物怪録』など一連の幽なる世界の奇譚について書き考察している。

49歳から54歳までの数年間、支那や印度の古記文献や、異国に於ける仙人や神の存在について研究する。この時期『葛仙翁伝』『扶桑国考』『黄帝傳記』『赤縣太古傳』『三神山餘考』『天柱五嶽餘論』他数多の道学的な本を物し道蔵などの経典を読んでいる。

1818年(文政元年)には門人山崎篤利の養女と再婚する。妻は織瀬の名前を継いだ。この間、現在の埼玉県越谷市の久伊豆神社境内に仮の庵をむすぶ。同境内には篤胤お手植えの藤があるほか、篤胤を偲ぶ石碑もある。

上京〜晩年

1823年(文政6年)に、著作を朝廷に献上する、若山(現和歌山)の本居大平(鈴屋一門の後継者)・松阪本居春庭(宣長の子)を訪れる、宣長の墓参をするなどの目的で上京し、関西を周遊している。

7月22日に江戸をたった際に「せせらぎに潜める龍の雲を起し 天に知られむ時は来にけり」と詠んだことから、上京にかける意気込みが知られる。

8月3日熱田神宮に参詣し、8月6日京都に到着した。富小路貞直を通して光格上皇に、また門人六人部節香是香を通して仁孝天皇に、それぞれ著作を献上した。

一方、篤胤の鈴屋訪問の報は鈴屋の門人たちに騒動を巻き起こし、斬新的な著作により既に異端の門人とされていた篤胤をどう迎えるかで意見が分かれた。親・篤胤派の代表であり、篤胤に大きな影響を与えた『三大考』の著者である服部中庸は篤胤を高く評価し、篤胤こそ宣長の後継者に相応しく、どの門人も篤胤には及ばないとまでいった。一方、反・篤胤派の代表としては、京都の城戸千楯や大坂の村田春門が挙げられ、篤胤はさまざまな書物を恣意的に解釈して、強引に理屈をつけていると批判した[注釈 4]

篤胤は京都の鈴屋の支店のようなところを訪れ、服部中庸と交流している。京都で篤胤と接触した門人たちは、篤胤に関する批評の手紙を大平に送っている。大平が整理していたそれらの篤胤の批評は、やがて人手を介して写本が篤胤に伝わり、のちに平田鐵胤が論評と補遺を加えて『毀誉相半書』という名で出版している。

本居大平は、『三大考』をめぐる論争で篤胤に厳しく批判されていたが、門人の一人として篤胤をもてなすことにした。訪問に先立って篤胤が送った「武蔵野に漏れ落ちてあれど今更に より来し子をも哀とは見よ」という歌に対して、大平は「人のつらかむばかりものいひし人 けふあひみればにくゝしもあらず」と返した。

両者の会談は友好的な雰囲気で行われ、篤胤は宣長の霊碑の1つを大平より与えられた。宣長の霊碑は、宣長自身によって3つ用意されていて、1つは実子である春庭のもとに、残る2つは後継者である大平のもとにあった。その大平が持っていた1つを篤胤に託したのである。

その後、伊勢神宮を参詣し、ついで松阪を訪れ、11月4日に念願の宣長の墓参を果たすが、その際に墓前に献じた「をしへ子の千五百と多き中ゆけに 吾を使ひます御霊畏し」という歌には、自分こそが正統な後継者であることの確信が表れている。松阪では鈴屋本家を訪れ、本居春庭と会談するなどして、11月19日に帰宅した。

壮年期以後の篤胤は1831年(天保2年)56歳頃から暦日易学に傾倒。『春秋命暦序考』『三暦由来記』『弘仁暦運記考』『太皞古易傳』他以後古史本辞経(五十音義訣)や神代文字などの言語文字の起源も研究している。

1841年(天保12年)1月1日江戸幕府の暦制を批判した『天朝無窮暦』を出版したことにより、幕府に故郷の秋田に帰るように命じられ、以後の著述を禁止された。激しい儒教否定と尊王主義が忌避されたともいわれる。

秋田に帰った篤胤は2年後の1843年(天保14年)9月11日に68歳で病没する。辞世の句は「思ふこと 一つも神に つとめ終へず 今日やまかるか あたらこの世を」。この時点での門人は553人であり、1330人が没後の門人となった。没後100年を経た1943年(昭和18年)8月21日、従三位が追贈されている。

思想

当初は、本居宣長らの後を引き継ぐ形で、儒教仏教と習合した神道を批判したが、やがてその思想は宣長学派の実証主義を捨て、神道的方面を発展させたと評されることが多い[3]。篤胤の学説は、関東中部奥羽神社農村宿駅など在方の有力者に信奉され、従来の諸学派をしのぎ、幕末の思潮に大きな影響をあたえ、特に尊皇攘夷運動の支柱となった[3]

篤胤は独自の神学を打ち立て、国学に新たな流れをもたらした[3]。神や異界の存在に大きな興味を示し、死後の魂の行方と救済をその学説の中心に据えた。そのために天地の始原・神祇・生死・現世と来世などにつき古史古伝に新しい解釈を加え、キリスト教の教義も取り入れ、葬祭の儀式を定め、心霊や仙術の研究もおこなっている[3]仏教儒教道教蘭学・キリスト教など、さまざまな宗教教義なども進んで研究分析し八家の学とも称した。なお、篤胤が大切にしていた新井白石肖像画が現在も伝世しており、学者としてすぐれ、実証的に論理的に学問をおこなう人物に対しては、相手が儒者であれ、深い尊敬の念をいだいていたことがわかる[4]。また、西洋医学、ラテン語暦学易学軍学などにも精通していた。彼の学問体系は知識の広範さゆえにかえって複雑で錯綜しており、不自然な融合もみられるとも称される[3]。篤胤の神道は復古神道と呼称され、後の神道系新宗教の勃興につながった。

篤胤の学説は学者や有識者のみならず、庶民大衆にも向けられた。彼は、国学塾として真菅乃屋(のちに気吹舎)を文化元年(1804年)に開き、好学の人であれば、身分を問わず誰に対しても門戸をひらいた[8]。文化元年(1804年)から明治9年(1876年)まで、篤胤死後も含めた平田塾の門人数は約4,200名にのぼったとされるが、このように、平田塾が広範囲に多数の門人を集めた理由のひとつとしては、平田国学が、近代をむかえようとする在方レベルでの新しい知識欲に応えうる内容を有していたからだと考えられる[8]。すなわち、その国学には、たとえ通俗化したかたちではあっても洋学からの新知識や世界の地誌地理地動説にもとづく宇宙論分子論を取り込んだ霊魂論、また、復古神道の論理的帰結であり、身分制の解体を希求する「御国の御民」論など、当時、台頭しつつあり、また地方の課題に向き合うことを余儀なくされた在方の豪農層には新鮮で有用な知見が多く含まれていたと考えられるのである[2][8]

篤胤は、一般大衆向けの大意ものを講談風に口述し弟子達に筆記させており、後に製本して出版している[4]。これらの出版物は町人・豪農層の人々にも支持を得て、国学思想の普及に多大の貢献をする事になる。庶民層に彼の学説が受け入れられたことは、土俗的民俗的な志向を包含する彼の思想が庶民たちに受け入れられやすかったことも関係していると思われる。特に伊那の平田学派の存在は有名である[4][8]。後に島崎藤村は小説『夜明け前』で平田学派について詳細に述べている。倒幕がなった後、明治維新期には平田派の神道家は大きな影響力を持ったが、神道を国家統制下におく国家神道の形成に伴い平田派は明治政府の中枢から排除され影響力を失っていった。

幽冥論

篤胤は、学問をするにはまず自らの死後の魂の行方を最優先で知らなければならないと断言した。そうして心の安定を得て、初めて学問に向き合えるとした。

本居宣長は、古典に照らして、人の魂はその死後、黄泉に行くと考えたともされる。黄泉の国は良くない国であり、そのことは逃れのないことで、だから死ぬことほど悲しいことはないと述べた。悲しいものは悲しいのであり、その現実をそのまま受け入れるべきだと説いた。

本居宣長の門人で、平田篤胤にも大きな影響を与えた服部中庸も同様に死者の魂は黄泉国に行くとした。ただし、中庸は黄泉国は空に浮かぶのことであり、その世界は須佐之男命月読命と同神だという)が治めていると考えた。

一方、篤胤は、他の学者のように他界を現世と切り離して考えたりはしなかった。黄泉の国の存在は認めたが、死者の国ではないとした。篤胤は、現実の習俗などから類推して、死者の魂は、死者の世界に行くが、その異界は現世のあらゆる場所に遍在しているとした。そして、神々が神社に鎮座しているように、死者の魂は上に留まるものだと考えた。現世からはその幽界をみることはできないが、死者の魂はこの世から離れても、人々の身近なところにある幽界にいて、現世のことをみており、祭祀を通じて生者と交流し、永遠に近親者・縁者を見守って行くのだとした。

これは近代以降、民俗学が明らかにした日本の伝統的な他界観に非常に近いといえる。逆に言えば、民俗学は、国学の影響を強く受けているということでもある。

現世は仮の世であり、死後の世界こそ本当の世界であるとした。これはキリスト教の影響である。篤胤は、キリスト教の教典も、『古事記』や仏典などと同じように古の教えを伝える古伝のひとつとして見ていたのである。

大国主命の主宰神説

篤胤によれば幽界は、大国主命が司る世界だという。大国主命は死者の魂を審判し、その現世での功罪に応じて褒賞懲罰を課すとしているが、死者が受けるその懲罰について、篤胤は詳細を述べていない。これは、篤胤の関心があくまで、この世における人生の不合理性の解決・救済にあり、為政者が望むような倫理的な規範の遵守を説くものではなかったことを示している。

この大国主命の幽冥界主宰神説は、篤胤以降復古神道の基本的な教義となり、近代以降の神道および政教関係を大きく方向付けることとなった1881年(明治14年)の祭神論争の出雲派の敗北で、公的には否定されるが、現在でも多くの神道系宗教で受け入れられている。

幽冥界の全体の主宰神は大国主であるが、各地のことはその土地の国魂神一宮の神や産土神氏神が司るとした。この発想は六人部是香に受け継がれ、発展させられている。

『仙境異聞』

「鬼神新論」「本教外篇」「古今妖魅考」「勝五郎再生記聞」「霧島山幽境真語」「稲生物怪録」「幽顕弁」などの一連の異界探究の論考の中に『仙境異聞』全五巻も含まれている。上の巻は三巻で下の巻が二巻そして此の中に「仙童寅吉物語」「神童憑談畧記」「七生舞の記」についての考察がなされている。当時この本は平田家では門外不出の厳禁本であり高弟でも閲覧を許されないといわれていた。内容を概略すると「此は吾が同門に、石井篤任と云者あり。初名を高山寅吉と云へるが、七歳の時より幽界に伴はれて、十四歳まで七箇年の間信濃国なる浅間山に鎮まり座る神仙(寅吉の師翁で杉山僧正と名乗る山人)に仕はれたるが、この間に親しく見聞せる事どもを、師の自ずから聞き糺して筆記せられたる物なるが、我古道の学問に考徴すべきこと少なからず、然れど此は容易く神の道を知らざる凡学の徒に示すべきものには非らず」と記載されている。

以前から異境や隠れ里に興味を抱いていた篤胤は、寅吉の話により、幽冥の存在を確信した。篤胤は寅吉を説得する事により、幽冥で寅吉の見えた師仙の神姿を絵師に描かせ、以後はその尊図を平田家家宝として斎祭った。寅吉が幽界に帰る際には、この師の住まわれると言う信濃国浅間山の隠れ里の山神に対して、篤胤自ら認めた手紙と自著「霊能真柱」を添え、又神代文字への質疑文を、寅吉に托し委ねて山神に献上手渡したという。これ等の経緯やその折に山神や寅吉に手向けた歌などを詠じた文や和歌を、仙境異聞の中に記述する。山神の図は現在東京代々木の平田神社宗家に大切に保管され、滋賀県大津の近江神宮では山神祭として定例の日に祭られている。

著書

主著解題

  • 『新鬼神論』(のち『鬼神新論』として刊行)
1805年(文化2年)完成。1820年(文政3年)に刊行。この書名は新井白石の『鬼神論』を意識したもので、新井白石・荻生徂徠伊藤仁斎など儒者の「鬼神論」を論じたもの。神霊の実在を、内外の古典に照らして主張した。
  • 『本教外篇』(『本教自鞭策』)
1806年(文化3年)成稿。2巻。5部構成。キリスト教のいくつかの教典(艾儒略(ジュリオ・アレーニ)『三山論学紀』、利瑪竇(マテオ・リッチ)『畸人十編』、龐廸我(ディエゴ・デ・パントーハ)『七克』)を翻訳したもの。直訳ではなく、自らの思想に合わせるように多少改変している。第5部については、パントーハの『七克』のほとんど全部に訓点を付けたもので「山上の垂訓」など、多くの聖書の句がおさめられている。研究ノート的な位置付けと考えられており、篤胤は公表しなかった。その事により後世まで残存したのかとも思料される。
代表的著書。未完。1811年(文化8年)に初稿ができ、刊行は1818年(文政元年)。全15巻の予定のうち、3巻(神代上中下)が刊行。『古事記』『日本書紀』をはじめ、『古語拾遺』や『風土記』などの古典が伝える神話を取捨選択し、篤胤独自の価値観に基づいて主観的に再構成したもの。推古天皇の代まで書かれる予定だった。草稿として7巻分(神功皇后まで)までが残っている。
  • 『古史徴』
代表的著書。1811年(文化8年)に草稿がなる。刊行は1819年(文政2年)。全4巻。1巻は「開題記」「春」「夏」「秋」「冬」と銘打たれた論考を収録。「開題記」は特に『古史徴開題記』としても知られる。「春」には神代文字に関する論考がある。2-4巻は、『古史成文』の編集の根拠が挙げられている。祝詞を重視していること、記紀のような古典だけでなく後世の諸書を活用していること、異神同一神説が多いことなどが特徴として挙げられる。
代表的著書。1812年(文化9年)成稿。1813年(文化10年)刊行。人間の死後の魂の行方を論じた書物。これをもって篤胤の学問の成立とする。服部中庸の『三大考』の影響を受けて、同書にならって、世界の成立の過程を図をまじえながら解説する。天動説地動説を考慮している。先妻織瀬の死んだ年に完成。この書が出て以降、復古神道で死後の世界への関心が高まる。現代の神道系諸宗教に与えた影響は計り知れない。
  • 『古道大意』
上下2巻。1811年(文化8年)に刊行。記紀神話による古道を理論的・体系的に解説。地動説的天体論を唱え皇産霊神を最高位の神として神話の真実性を説く。
代表的著書。1812年(文化9年)起稿。全37巻。本居宣長の『古事記伝』の形式にならって、自著『古史成文』を一段ずつ自ら注釈している。1814年(文化11年)に8巻まで刊行。生前に28巻が刊行される。全巻の刊行は1911年(明治44年)で、平田鐵胤の依頼で矢野玄道が篤胤の残した草稿を仕上げた。
代表的著書。全2巻。1822年(文政5年)刊行。神仙界を訪れ、呪術を身に付けたという寅吉からの聞書きをまとめたものである。寅吉は7歳のときに杉山僧正に伴われて、常陸の岩間山に行き、修行して幽冥界に行き、外国も廻ったと主張し、呪術を操って江戸で評判となった。このことを聞いた篤胤は最初に寅吉を保護していた山崎美成のもとから半ば強引に自分の家に連れてきて数年間住まわせた。篤胤は神仙界に住むものたちの衣食住・祭祀・修行・医療・呪術などについて、隈なく質問をして、その内容をこの本に収めた。
  • 『勝五郎再生記聞』
代表的著書。1822年(文政5年)刊行。死の世界から蘇った少年のことを取材してまとめたもの。多摩郡中野村(現:東京都八王子市東中野)の百姓源蔵の次男の勝五郎(9歳)が、自分は多摩郡程窪村(現:東京都日野市程久保)の百姓久兵衛の息子の勝蔵の生まれ変わりであるといった。1810年(文化7年)に6歳で死んだが、幽冥界で産土神である熊野権現(日野市南平8丁目の熊野神社か。)に会って、今の家に再生したと彼は言う。篤胤はその再生を大国主の幽冥事を分掌している産土神の計らいだと解釈した。
全4巻。1806年(文化3年)に刊行。稲生武太夫がもののけを退治する絵巻物。篤胤の著作ではなく、4つの異本から校訂した。序文を記す。
  • 『古今妖魅考』
全7巻。1821年(文政4年)に刊行。『本朝神社考』の中の天狗に関する考察に共鳴して執筆した。天堂地獄が幻想に過ぎないことを説いた。

著作一覧

  • 『呵妄書』
  • 『幽顕弁』
  • 『八家論』
  • 『鬼神新論』
  • 『古今妖魅考』
  • 『密教修事部類稿』
  • 『本教外篇』
  • 『勝五郎再生記聞』
  • 『古易成文』
  • 『悟道弁』
  • 『仙境異聞』
  • 『古易大象経成文』
  • 『伊吹於呂志』
  • 『神童憑談略記』
  • 『古易大象経伝』
  • 『童蒙入学門』
  • 稲生物怪録
  • 『三易由来記』
  • 『古道大意』
  • 『三神山余考』
  • 『象易正義』
  • 『俗神道大意』
  • 『七生舞の記』
  • 『太昊古易伝成文』
  • 『西籍概論』
  • 『霧島山幽郷真語』
  • 『太昊古易伝』
  • 『出定笑語』
  • 『赤縣太古傳』
  • 『欽命録』
  • 『歌道大意』
  • 『天柱五嶽考』
  • 『太昊古暦傳』
  • 『氣吹舎歌文集』
  • 『天柱五嶽考余論』
  • 『古暦日歩式』
  • 『志都能石屋』
  • 『五嶽真形図説』
  • 『古暦月歩式』
  • 『医宗仲景考』
  • 『葛仙翁文粋』
  • 『春秋暦本術篇』
  • 『大道或問』
  • 『葛仙翁伝』
  • 『太昊暦旋式』
  • 『霊能真柱』
  • 『黄帝伝記』
  • 『弘仁歴運記考』
  • 古史成文
  • 『神仙教化編』
  • 『牛頭天王暦神弁』
  • 古史伝
  • 『神仙行氣編』
  • 『古今日契暦』
  • 『古史徴』
  • 『神仙採補編』
  • 『家相九説弁』
  • 『古史徴開題記』
  • 『三十五本国考』
  • 『六家要指論』
  • 『玉襷』
  • 『神仙導引編』
  • 『孔子聖説考』
  • 『伯家学則演義』
  • 『神仙服薬編』
  • 『五種類考』
  • 『古史系図』
  • 『神仙方術編』
  • 『万聲大統譜』
  • 『古道太元図説』
  • 『春秋命歴序考』
  • 『五十音義訣』
  • 『天津祝詞考』
  • 『前漢歴志弁』
  • 『天朝無窮暦』
  • 『大祓詞再釈』
  • 『夏殷周年表』
  • 『祝詞正訓』
  • 『参考神名式』
  • 『皇国異称考』
  • 『大祓詞正訓』
  • 『校正諸神階記』
  • 『古今乞盗考』
  • 『氣吹舎筆叢』
  • 『毎朝神拝詞記』
  • 『巫学談弊』
  • 『氣吹舎日記』
  • 『年中神祭詞記』
  • 『皇国度制考』
  • 『氣吹舎文集』
  • 神字日文傳・疑字篇
  • 『古今交蝕囲範草』
  • 『伊吹伎廼屋歌集』
  • 『武学本論』
  • 『終古冬至格』
  • 『金匱玉函経考文』
  • 『神道玄妙論』
  • 『太一遁甲古義』
  • 『古史年暦篇』
  • 『古道大元顕幽分層図説』
  • 『玄学得門編』
  • 『玄学月令編』
  • 『幹支字原考』
  • 『大同本記逸文』
  • 『年中神祭詞記』
  • 『皇典語彙』
  • 『赤縣度制考』
  • 『天象古説図』
  • 『医宗脈言』
  • 『皇典文彙』
  • 『古学諄辞集』
  • 『家礼徴古編』
  • 『伊勢物語梓弓』
  • 『蘭学用意』
  • 『師長訓』
  • 『徴古歳時記』
  • 『五種類考』
  • 『千嶋白波附地図』
  • 『日女島考』

刊行本

  • 篤胤全集刊行会編『新修平田篤胤全集』(名著出版)全21巻
  • 岩波文庫(岩波書店)
    • 山田孝雄校訂 1992『古史徴開題記』
    • 子安宣邦校注 1998『霊の真柱』
    • 子安宣邦校注 2000『仙境異聞 勝五郎再生記聞』
  • 佐佐木信綱校註 1941『平田篤胤歌文集』(冨山房)
  • 斎藤一寛編 1945『俗神道大意』(日本電報通信社)
  • 簗瀬均著 2017『魂のゆくえ「再生記聞」を読む』(秋田魁新報社)

電子書籍

  • 1875『古易成文』(伊吹廼屋)全2巻
    • 国会図書館近代デジタルライブラリー[1][2]
  • 1879『童蒙入学門』
    • 国会図書館近代デジタルライブラリー[3]
  • 平田鉄胤 1881『毎朝神拝詞記』
    • 国会図書館近代デジタルライブラリー[4]
  • 1881『大祓詞正訓』
    • 国会図書館近代デジタルライブラリー[5]
  • 角田忠行 1885『歌道大意』
    • 国会図書館近代デジタルライブラリー[6]
  • 井上頼圀・角田忠行・平田鉄胤・平田胤雄・平田延胤・矢野玄道 1887『古史伝』全33巻
    • 国会図書館近代デジタルライブラリー[7](以下略。アドレスのNUM=00001の数字を変えれば、33巻まで見ることができる)
  • 北尾政美 1902『天満宮御伝記』(風月堂支店)
    • 国会図書館近代デジタルライブラリー[8]
  • 覚厳心梁 1906『印度蔵志』(神風会出版部)
    • 国会図書館近代デジタルライブラリー[9]
  • 出版年不明『赤県太古伝成文』(伊吹廼屋)
    • 国会図書館近代デジタルライブラリー[10]
  • 『仙境異聞』現代語訳[11]
  • 『勝五郎再生記聞』現代語訳[12]

親族・交友関係

系譜・親族

生家は千葉氏の一族で戦国期に佐竹氏に仕えた大和田家胤を祖とする大和田氏であり、養子先は平家の武将・平家継の末裔を称する平田氏で、どちらも桓武平氏の流れを汲んでいる。

子供は、先妻織瀬との間に2男1女いたが、男子は二人とも夭折した。1802年(享和2年)に長男常太郎が生まれ、1805年(文化2年)に長女千枝(千枝子とも)が生まれ、1808年(文化5年)に次男半兵衛(のちに又五郎と改名)が生まれた。常太郎は生まれた翌年に、半兵衛は1816年(文化13年)に没した。

養子銕胤と娘千枝

1824年(文政7年)1月15日、唯一無事に成長した千枝が、伊予国新谷藩の碧川篤真と結婚した。碧川篤真は篤胤二大高弟のひとり碧川好尚の実兄で、平田家の養嗣子となり平田銕胤(鐵胤)を名乗った。千枝はのちにおてう(お長)に改名し、また晩年には母の名である織瀬を受け継いでいる(1888年明治21年)3月没)。

銕胤は内蔵介のち大角とも名乗り、1868年(明治元年)には神祇官判事に任じられ、明治天皇の侍講となり、ついで大学大博士に進み、のち大教正となった。篤胤の死後は家学を継承し平田学を普及させ、また、先代の負債を清算した。著書に『祝詞正訓』がある。1880年(明治13年)10月15日鐵胤没す。享年82。

2人のあいだには平田延胤・胤雄の子があった。

子孫

その後の平田家は、篤胤嫡孫の延胤、婿養子盛胤宗胤と続くが、宗胤には、子がおらず、1973年11月7日に死去、絶家となった。ただし、宗胤は、死去の前年絶家を認識しながら代々木平田神社を創立しており、その2代神主、米田勝安が、事実上平田家の名跡を継いでいるといえる。

交友関係

寛政の三奇人」のひとりで『山陵志』『職官志』を著し、対外危機に対処可能な国家と国家機構のあり方を模索した蒲生君平は篤胤の友であった[2]百姓出身でその圧倒的な実績と能力によって幕臣に取り立てられた探検家最上徳内もまた篤胤の生涯の友で、篤胤の異文化理解に大きな役割を果たした[10]

ゆかりの地・墓所

平田神社(2016年7月6日撮影)
平田篤胤の墓 (国の史跡)(2014年6月10日撮影)

東京都渋谷区には、平田篤胤を祭った平田神社があり、篤胤の子孫はまた代々神田明神(東京都千代田区外神田)の神職を務めている。平田国学の私塾、気吹舎は江戸湯島天満宮男坂下( 現、東京都文京区湯島)に所在した。なお、千葉県旭市には、篤胤の歌碑が残されている。

篤胤の生家である大和田家は久保田城下の旧亀ノ丁新町(現、秋田市中通り六丁目)には、文久3年(1863年)、久保田藩士小野崎通亮吉川忠安らによって国学塾雷風義塾が創設された。

墓所は秋田市の手形山(手形字大沢21-1)に所在し、国の史跡に指定されている。

その他

2006年8月22日放送の「開運!なんでも鑑定団」にて、篤胤のものとされる書簡を鑑定した結果、鐵胤の書簡であることが明らかになった。鐵胤は書簡のなかで、幕末の混沌とした政情の中王政復古が間近に迫っていることに言及している。2015年11月24日の放送でも書簡が鑑定され本物であることが明らかになった。

脚注

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注釈

  1. ^ 当時の久保田藩は財政危機にあって、藩士の給料から強制借上げが恒常的に行なわれていた。
  2. ^ 別の伝記では、1801年(享和元年)に本居宣長のことを知り、その門下に加わろうとするが、同年に宣長は没し、没後の門人としてその名を鈴屋塾に置いたというが、篤胤が宣長のことをその存命中に知ったとしたのは、平田篤胤の学派を国学の正統として位置付けるための後世の創作と考えられる。
  3. ^ この岩笛は千代田区の平田神社宗家にある。
  4. ^ 城戸千楯は篤胤が来るに当たって妨害工作などもしていたらしい。

出典

参考文献

  • 伊東多三郎 「平田篤胤」『日本歴史大辞典第8巻 は-ま』 日本歴史大辞典編集委員会、河出書房新社、1979年11月。
  • 井上隆明監修 『秋田人名大事典 第2版』 塩谷順耳・田口勝一郎・千葉三郎ら編集、秋田魁新報社、2000年7月。ISBN 4-87020-206-9。
  • 賀川隆行 『集英社版日本の歴史14 崩れゆく鎖国』 集英社、1992年7月。ISBN 4-08-195014-8
  • 桂島宣弘 「平田国学と豪農層」『朝日百科日本の歴史9 近世から近代へI』 野上毅編、朝日新聞社、1989年4月。ISBN 4-02-380007-4
  • 桑原恵 「7 古典研究と国学思想」『日本の近世第13巻 儒学・国学・洋学』 頼祺一編、中央公論社、1993年7月。ISBN 4-12-403033-9
  • 西岡和彦 「II 四 理論化する神道とその再編」『日本神道史』 岡田荘司編、吉川弘文館、2010年7月。ISBN 978-4-642-08038-5
  • 田原嗣郎 「平田篤胤」『國史大辭典11 にた-ひ』 國史大辭典編集委員会、吉川弘文館、1990年8月。ISBN 4-642-00511-0
  • 宮地正人 『幕末維新変革史・上』 岩波書店、2012年8月。ISBN 978-4-00-024468-8。
  • 平成16年の別冊太陽「平田篤胤」号(平成16年5月23日発行、平凡社) - 平田神社米田宮司と作家の荒俣宏の対談を中心に宗家秘蔵の未公開資料が写真版を含め多数収録されている。内容は篤胤の神道思想から幽冥論・神仙研究・民俗研究・医道論・書簡日記にも及び、中でも宣長との「夢中対面図」をはじめ、「高根神の尊図」仙境異聞の中で寅吉から異界の模様を聞き糺し、仙境の模様を精密に筆写描写して絵図に描いた「七生舞の記」や「仙境図」・「霊宝五嶽真形図」などの他「稲生平太郎物語」や「おのころ島の図」「氣吹舎日記」などの貴重な資料集を写真公開している。

関連項目

外部リンク